2020宣言の解説3

本日は

「前むきにそして調子に乗らない」

 

この言葉は相反している。

自分で宣言しといてめっちゃ矛盾してるな。と思う。

・やれと言っといてやるなと

・アクセルを踏んでブレーキも踏めと

・砂糖と塩の両方ぶち込めと……

 

これは…水と油ほど違う。磁石のN極とS極ほども違う。男と女ほどにも違う。とにかく違いすぎて融和できないのだ。

 

同時にやるには制御が難しい。

 

ん?同時?制御?コントロール

これが自制そのもの…か?では?だよね。

 

同時にやるから変になる。

バラバラでやりゃ良いんだ。

 

パラレルでやるのは無理だけど

シリーズでやればよいのかな?

 

この世は

やりすぎたら引け。

やらなすぎたら押せ。

それが基本。

 

確かにその通りだと。

これが空気を読むってことだね。

番外編

仕事の日

今日は参った。

朝の決意が一秒おきに揺らぐ揺らぐ。

気分はジェットコースター的な。自責って言ったらそれまでだけど。

 

なので、ジムに行こうと思ったものの、夕方は全くその気にならず。グッズはそのままお持ち帰り。ついでに水曜の飲み会もキャンセルしてしまった。

 

そんな時もあるよ。

何が俺にとって一番大事か?考えまくった1日。

 

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2020宣言の解説2

本日は以下の解説

「こだわらない完成度を上げない」

 

何かを成し遂げる時、

こだわらなければいけないのだが、自分の場合こだわってはいけないのである。別な言い方をすると完成度を上げてはならない。

 

数々のイベントをやってきた中で、やりすぎの傾向があるのは周知の事実。これにより数々の方に迷惑をかけた。修復不可能な事態に陥ったこともあった。

 

まぁね、自分だけでやれば良いし、周りの人に迷惑をかけなければ良いのだが、どうしても相手側に空気は伝わるよね。上手く歯車が噛み合わない場合が多々ある。

 

では?どの辺で止めれば良いか?

なかなか難しいのだが、自分的に「腹八分」位が、周りにとって「とんでもなく超満腹」位としておこう。

 

この一年、完成度を上げてはならない。

2020宣言の解説1

fbに

2020年の「数々の恐怖を乗り越えるおまじない」を
書きとめた。

 

内容は以下である。

・色々やるぐるぐる回す
・こだわらない完成度を上げない
・前むきにそして調子に乗らない
・ケチケチしない
・手帳の手垢
・創作発表後の観衆のざわめき

 

日を分けて、上記の解説をしておこう。

 

本日は「色々やるぐるぐる回す」

人生100年、その中で飯(=仕事)を食っていくなら「この専門家です」とプロ宣言して生きていくべき。その道を極めるなら細い針の先を目指す。

でないと、いつまでもアマチュアで信頼されない人のまんま。

これ俺の持論。

 

ただし、長い人生いぶし銀の筋金専門家ってどうよ?とも思う。固執してこだわりまくって成功する?とは限らない。成功してもそれが永遠に続くとも限らない。そんな時大事なのは、幅の広さ。枝葉の多さ、側道の多彩さとでも言おうか。つまり「あいつは色々できる」だろう。

 

面白いorそうじゃないは、話題の多さ。

余力の有無は、情報の多さ。

テンパるテンパらないは、経験の多さ。

全て「色々やる」に繋がっている。

 

そして、そのネタを深掘りせず、次から次へとやるのが「ぐるぐる回す」のである。

 

 

 

俺と言う人

茫然自失

もうね。誰かと思ったよ。

中枢神経やられたんだなー。

参った。参った。

あーなっちゃうんだね。

 


今更ないやろ。

徐々に状況がわかってくる。

さすがにイヤになった。

 

本年最後の自省。

スタンス

ポアンカレ的に言うと。

 

集めるのである。

そして…めちゃくちゃ考えるのである。

死ぬほど。悩みまくって。這いまわって。

 

つぎに…

突然、やめて、放っておくのである。

放っておく間は…意識することなく…待つのである。

そうしたら光明が降るのである。

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いつの時代にも、

考えすぎは厳禁なもので、テキトーにやる。テキトーに流す。が大事。

 

その中に"キッ"とする。他人が寄り付けないエリアがあればよい。

 

どんな変人でも自分の軸がある人は一目置かれる。

ーーーー

 

191222追記

あ。自分のアイデア創出&具現化は…

 

最初思いついた事をランダムに書き出す。

その際完成形を意識しない。

とにかく書く。思いついた事を思いついた順に。

書き出す場所を極力同じ紙(ノート?)に。

ポストイットに書いてノートに貼り付ける事も。

その後素案はしばらく放置。

そして時々たまに眺める。

 

一方で完成形を考え始める。

独自のアイデアorオマージュ含め構成枠を固め始める。

どうやれば着地できるか?

をぼんやり考え始める。

 

着地点がない場合は寝かした素案は凍結or先送り。

着地点が見つかった場合はプロシージャを組み始め素案をそこに当てはめ始める。

 

素案はバラバラで発案。

その際最初から順番にやらない。これはたましい&肉付け。

 

プロシージャも別から持ってくる。

その際面白い素案は無理に考えない。ココは骨格。

 

たましいと肉をバラバラで拾ってきて

別に作った建物の骨格&部屋に後で放り込む。

 

そんな感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楽になり見えたこと

つまりは楽になったのである。

よいアウトプットを出すまでの行為が。

 

一方でより鮮明になったセンスの良し悪し。

 

昔はぜーんぶ自分でやってたけど、

最近はかなりの範囲まで機械が助けてくれる。

 

車の運転、料理、洗濯、仕事関係ならPCや高度な分析等等。見えないものが見え、出来ないことが簡単により高度にできる。

 

α7III+SEL200400GMの異次元を見た。

異次元と言うよりこれが最新技術の現実だ。

 

何を?

どう言う目的で?

どの様に撮る?

 

自分はこれを写真の3大原則と捉えているのだが、最新技術の恩恵で、3つ目の「どの様に撮る」だけに集中できることが分かった。

 

写真に最も重要視されるピント…

これがほぼノーストレスで合致する。合わせなければならないと言う苦痛からの解放がここまで快感とは思わなかった。そしてその快感は撮影後の画像チェックで更に増幅される。

 

一方で、「どの様に撮る」の中のピントと双極的要素のフレーミング。これはモロセンスの塊りとなる。ここに技術の介入する余地はない。

 

よく見て欲しい。

何が上手くて、何が下手か。

マシンの取り扱いなのか?センスなのか?はたまた両方なのか?だ。